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4.公的関心事


(1)公人
 まず、プライバシーが最も狭く、公的関心事の範囲が最も広くとらえられることになるのが、政治家や公務員といった公人である。とくに、国会議員などの政治家においては、議員にふさわしいかを判断する上で、その人の人柄を知ることは重要ことだとされている。どのような生活を送っているかは、人柄や人格を判断する材料になるため、私的な男女関係も正当な関心事になり、むしろ報道されるべきものだとする解釈もある(田島、1998;喜田村、1999)。
 また、私人の場合には、その人がどの宗教を信仰しているかということに干渉することはプライバシーを侵害するともいえる。しかし、政治の分野では宗教と政治の関係がどうあるべきかと議論がされているため、政治家がどのような宗教を信仰しているかを報道することは、価値のあることだといえる(喜田村、1999)。

(2)私人                                    
 私人の場合には、他者の人生や生活に精神的な影響を与え、ものの考え方に指針を与えるような政治家などの公人とは異なり、多数の市民に影響を与える地位にはないので、権限が乱用されたり、誤って用いられたりということもない。また、自ら進んで公人としての地位を得た政治家とは違い、私人はその立場を選べるわけではない。したがって、私人としての地位にとどまっている限りは、社会的な批判を受けることを予期していたとみなすこともできない。

 たとえ、報道される場合があったとしても、それは犯罪の容疑者であったり、犯罪や事故に巻き込まれたりしたときには、本人の氏名や年齢などを報道されるが、このようなことは、犯罪や事故を報じるという社会的に正当な理由からであり、このような事実を報道することは必要だとされている。しかし、場合によってどこまで触れることが許されるかという具体的な基準は曖昧で、問題が生じることもある(喜田村、1999)。

(3)有名人/芸能人 
 芸能人や、スポーツ選手などといった有名人のスキャンダルがワイドショーなどで取り上げられた場合に、これが報道被害に当たるかどうかの判断はむずかしい。

 アメリカにおいては、映画俳優やスポーツ選手のような社会的に有名な人たちは、一般の人とは別扱いされることが多い。しかし、日本の裁判では、単に芸能界などで活躍していて名が売れているというだけで公的存在であるとされた人はいないという(村上、1996)。公的存在として扱われた人と扱われなかった人との差は、社会的な肩書きと実質的な影響力の有無にあるという。作家や芸能人、スポーツ選手にはいろいろな人がいて、その人たちを活躍度や有名度の違いで分けることは不可能だが、社会的な肩書きがある人ない人の差ははっきりしているからである(村上、1996)。
 そもそも「芸能人」とは、「映画、演劇、音楽、歌謡、舞踊などの『大衆的』な芸能を行なう人」(広辞苑)のことを指す。
  かつて、芸能人は大衆とは別世界の人で、両者の生活はかけ離れたものだった。そのため、大衆が芸能人のプライバシーに興味を持つことはなく、憧れの対象でしかなかった。しかし、現在芸能人は、テレビや週刊誌を通じて大衆に身近な存在となり、芸能人と一般の人との境界は曖昧となった。芸能人として成功するには、大衆に愛され、話題の対象となることが重要となったのである(1987、弘中)。そのために、芸能人の中には、メディアに取り上げられてもらうことで人気を獲得し、維持する人もおり、普通の人なら嫌がるようなプライバシーを自ら公表することもある。そのようなことを考えると、公的関心事の範囲が一般の人より広くとらえられていいのではないかという意見がある(田島、1998;喜田村、1999)。

(4)犯罪事実
 刑法230条の二第二項は公訴提起前の犯罪事実の指摘には公共性があるものとみなしているが、この条文の適用を受けるためには、犯罪として指摘した事実が後に実際に犯罪を構成するか、それに近い状態になることを必要とする。犯罪事実の指摘は、往々にして私的部分に踏み込んでプライバシーを侵害しがちだが、指摘された犯罪事実が実際に犯罪を構成したときは、被害者は犯罪容疑者となってプライバシー侵害が違法とはならない場合が多いのに対して、犯罪を構成しなかった場合は、被害者は私人にとどまり、プライバイシー侵害はほぼ確実に違法となる(村上、1996)。
 犯罪情報が公的情報であるべき理由は数多くある。まず、刑事事件・刑事裁判では公権力が行使され、事件あるいは裁判が公的な情報となることが指摘される。このような公的情報としての犯罪情報は、みんなに共有されることによって、公権力に対する批判的監視が有効になされると同時に、捜査に対する国民の協力も可能になる。また、犯罪情報は、社会にとって緊急の社会防衛を考えると必要な情報であって、また、犯罪の原因をつきとめ、場合によっては、社会がその責任の一部を共有し反省する機会をえる、という意味でも公共的関心の対象となるべき情報だという(駒村、2001)。

(5)アメリカと日本における免責法理
 アメリカにおいて、メディアは公人や公的人物については名誉毀損の責任を問われることがほとんどない。なぜなら、公人、あるいは公的人物において「現実の悪意」という法理が判例で確立されているという理由からだ。「現実の悪意」とは、報道機関がその報道内容が虚偽であることを知っていたか、あるいは真偽にまったく関心をよせずに報道し、かつその報道が相手に損害を与えることを認識していたことを指す。つまり、公人側は、名誉毀損で勝訴判決を得るためには、「現実の悪意」があったことを明確に立証しなければならない。これは、意図しないでなされた虚偽の報道は、報道の自由全体を守るためには甘受しなければならないという考えからだという(喜田村、1999;飯室、2002)。
 しかし、「現実の悪意」があったかどうかは、あくまで報道機関の主観によって判定される。つまり、報道をする場合に、報道機関が通常では考えられないような不注意によってその内容を真実だと誤信したとしても、主観的にはその報道が正しいと考えていたのであるから、「現実の悪意」は存在しないのである(喜田村、1999)。したがって、これを公人側が立証することは大変難しいことだということが分かる。
 このようにして、アメリカのマスコミは、公人や公的人物からの名誉毀損訴訟の恐れによって、報道が制約されることはまずないといえる。
 これに対して日本はどうか。名誉毀損が成立しないためには、報道した事実に公共性があること、報道は公益目的であること、報道内容に誤りはないこと(誤りだとしても真実と信じてやむを得ない事情があったこと)をすべて報道機関側が立証しなければならない。
 喜田村(1999)によると、原告側がどのような人であれ、報道機関が一定の要件を証明するという現状は、すべての人を同等に取り扱うという点で、一見「法の下の平等」に適うかのように見えるが、実際には公人に対する過大な保護と私人に対する過小の保護という結果を生みだしているという。
 そして、公人は、各種の権力や権限を有し、多数の市民の生活に影響を与える地位にあり、彼らが与えられた権限を正しく行使しているかどうかチェックすることは報道のもっとも重要な役目である。この役目を十分に果たさせるのが報道の自由であるから、公人に関する報道は、基本的に自由とされなければならない。