Sotugyo

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Hajimeni

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はじめに


 現在、国民の間に「マスコミ不信」の空気が強く流れている。この背景には1980年代以降にみられた報道による人権侵害への市民意識の高まりが一つの要因としてあげられている。事件報道における容疑者の人権擁護という形で表れ、マスコミ側が呼び捨てをやめて容疑者呼称を採用した。さらに、90年代に入って、犯罪被害者の人権擁護、マスコミの取材からプライバシーを守ろうという流れへと続いていった。犯罪被害者達の会合で、国による犯罪被害者の救済策が求められると同時に、マスコミによる二次被害からの救済が大きく主張される場面が繰り返されてきた(橋場、2002)。
 また、公権力と闘ったり、社会的影響力の強い人に正面からぶつかったりするのではなく、罪を犯したとはいえ弱い立場にいる人物や芸能人のプライバシーを過度に暴くことばかりに表現の自由を利用する一部のメディアの姿勢も市民の反感をかう原因となっている。
  さらに、最近の重大事件(「松本サリン事件」、「神戸児童連続殺傷事件」、「和歌山毒物カレー事件」など)においては、捜査機関が強制捜査に乗り出す前の段階で、報道機関が特定の市民に疑惑を向けて取材・報道する傾向があり、問題となった。
 こうした問題を背景に、市民が知りたいと考えている、あるいは市民が知っておかなければならないとメディアが考え選んだ報道内容や取材方法が、実際に市民に受け入れられているのか疑問に感じた。そこで、最近の重大事件の中で19987月に起こった和歌山のカレー事件について取り上げ、市民が知りたいと思っていることと、メディアが知る権利に応えるためにと考え、取材あるいは報道していることに違いはないのか調査することとした。
  この事件に着目したその理由はいくつかある。まず、2002年に12月、林真須美被告に死刑判決が言い渡され、この事件への関心度が高まったことである。そして、先にも述べたように、最近の国民の中にあるマスコミに対する不信感の増大である。近年、国民の味方であるはずのマス・メディアが国民と敵対関係に転じてしまうことが頻繁に起こっている。カレー事件も同様の状況が現れた事件のひとつだろう。なぜこのような事態が起こってしまうのか。
 この事件の報道の中で私の目に焼き付いて離れない映像がある。それは、林真須美被告が報道陣に向かってホースで水をかけているものだった。もちろん林被告のその抗議の仕方にも驚いたが、多くの報道陣がはしごに登り、被告宅の様子をのぞいている様子にも同じくらい驚いた。他人の家をはしごを上って堂々とのぞくプライバシー侵害がまかり通っていいのか、真実を知るためにそこまでやらなくてはならないのだろうかと疑問に感じた。マスコミの取材方法や報道内容などに私と同じように疑問を感じた人はいなかったのかと考えたのである。
  取材する側の意見として、取材領域の決定は自分たちの良識に任せてほしいというものがある。国民のマスコミへの不信感の増大という事実を考えると、彼らのいう「良識」というのは、はたして国民に受け入れられているのか疑問に思う。もしも、両者の間に意見の相違が見られたなら、メディア側の「良識」というものが、曖昧な側面を持っているということをこの卒業論文は完全ではないにせよ、記すことができるであろう。そして、国民がメディアからの情報をそのまま受け入れてしまわないために、メディア・リテラシーを身につけることの重要性が見えてくるだろう。マスコミの行う取材報道活動を市民はどのように感じているのか、その一端をのぞけたらと考える。