Sotugyo

bun

Owarini

ron

おわりに

 本稿では、まずマス・メディアの本来担うべき役割について触れ、次に「マスコミ不信」の背景を探るために、1980年代の写真週刊誌の増加や、市民のプライバシー侵害への関心を高めるきっかけとなったであろう出来事、そして1980年代に実際に起こったいくつかの報道による人権侵害について振り返った。
 それらを踏まえ、プライバシーの権利や名誉権、報道が許される公的関心の範囲(公人か私人かなど)は法的にはどのように解釈されているのかといった基本的な事柄を解説した。
 そして、典型的な犯罪報道を紹介し、実名・匿名報道それぞれを正当と主張する根拠、そして「容疑者呼称」が生まれた経緯について触れた。
 研究の目的として、和歌山カレー事件で実際に行われた取材やその報道内容についてグループディスカッションという方法をとり、学生の意識調査を行なった。この調査を実施したのは、市民が知りたいと思っている、あるいは市民が知っておかなければならないとメディアが考え選んだ報道内容や取材方法が実際に市民に受け入れられているかどうかを調査するためである。この結果、次のようなことが明らかになった。
 まず、予想以上に和歌山カレー事件におけるメディアの取材方法や報道内容を肯定する意見が多く、逆に、メディアに対する批判や報道される側への配慮の声は少なかった。
 また、メディアと学生との事件報道の取材や取材方法への意見の違った点や、反対に双方の考えが一致した点も見えてきた。まず、両者の意見の相違点についてだが、実名報道に犯罪抑止効果や犯罪者への制裁能を求めることには反対の意見が多かったことである。つまり、実名報道を肯定する理由として、この効果は正当なものではないということになる。そして、メディアと学生の考えの一致した点だが、実名報道を原則とする根拠の中の「実名報道の弊害については、人権を侵害しない報道の仕方、記事の書き方によって対応を考えるべきである」という考えと、「将来はともかく、現時点では、多くの読者が匿名への転換を求めているとは考えにくい」という考えである。
 そして、問題点もいくつか見えてきた。まず、先にも述べた報道される側への配慮の声が少なかったということから、メディアは本来担うべき役割である社会教育機能と生涯教育(全番組を通して社会の改善と改革へのキャンペーンを展開する)が果たせていないことがうかがえる。つまり、メディアは市民に報道による人権侵害という問題について市民が考える場を提供できていないということではないか。それを考えると、市民への議論の場(討論と意見交換のためのプラザの提供)としての機能も果たせていない可能性も考えられる。そして、学生にプライバシーに関する知識が浸透していないこともわかった。このプライバシーに関する知識の不浸透は、報道と人権問題を考える上での弊害となっていると思われる。
 今回のグループディスカッションでは、項目の選定や前後関係を考えた項目の順番決定を誤ってしまい、意見交換ができない項目も出てしまった。この失敗は、パイロット・スタディを行なうことによって防げたことである。
  今後この研究を発展させるとするならば、一組のみのディスカッションではなく、数組からデータを取り、学生だけでなく、年代別にディスカッションを行なえばより良い結果が得られるだろう。
  グループディスカッションの参加者は、基本的に現在のマス・メディア活動を支持しており、取材する側の「取材領域の決定は自分たちの良識に任せてほしい」という主張は市民に一応受け入れられているといえるだろう。しかし、いくら人権を侵害しない報道の仕方によって報道被害への対応を考えるべきだと主張しても、報道による人権侵害が行なわれ、それに苦しむ人々がいるのは現実の問題であり、メディアのいう「良識」という定義は曖昧なものであることは否めない。また、市民側の抱える知識不足などといった問題も浮上した。結果として、メディア側の基準で決定された報道内容と市民の知りたいと考える情報は一致したが、この現状に甘んじていてはいけないのではと考える。メディアに公権力を監視する義務があるのと同様に、私たち市民にもメディア活動について考え、議論していく必要がある。そのために、メディアは市民との議論の場を提供し、市民は議論をするための基本的な知識を持ちながら、メディアに厳しい目を向けていかなければならない。